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京都の冬がますます堪えるようになった今日この頃。年末から1月にかけて忙しく、2月に入っても風邪が治る気配がない。どうかこのまま春まで冬眠させてください。
2013年はアメリカで、具体やもの派など、日本の50年代後半から60年代に興った美術動向がブームになったが、その延長線上で足を運んでみたのが大阪の国立国際美術館で開催していた工藤哲巳の回顧展(巡回展で、今は竹橋にある東京国立近代美術館で開催中)。 展覧会は「あなたの肖像」というタイトルだが、心安い気持ちで観に行くと痛い目に遭う。約200点の展示の大半を占める立体作品の数々は、決して親しみ易い作品ではない。眼球、脳、鼻、性器といった肉体のクローズアップ、死や腐敗といった人間のグロテスクな部分が「あなたの肖像」として生々しく提示されるのだ。何より作家自身が人間の醜悪さや不能に向き合い、おぞましい作品を発表し続ける、その自己を投影した強烈な芸術的表現に圧倒される。 工藤哲巳(1935-1990)は大阪生まれ。東京藝術大学在学中から、若手前衛芸術家らの作品発表の場である読売アンデパンダン展に出品。赤瀬川源平、篠原有司男らと共に反芸術の旗手として脚光を浴びる。1962年に第2回国際青年美術家展で大賞受賞したのを機に渡仏。以後、約20年に渡りパリを拠点にヨーロッパで活動を続ける。1987年に母校の東京藝術大学教授に就任するも、1990年に55歳で死去。 主要作品を紹介。1962年に第2回国際青年美術家展で大賞を受賞し、フランス留学の機会を得るが、新しい絵画表現を求めて19世紀末から20世紀前半にパリに学びに行った、かつての日本の洋画家たちと違い、工藤はパリに学ぶ事は何も無く、単に奨学金がもらえるという理由で渡仏。よって異国の地に迎合する気も毛頭無かった。 『インポ分布図とその飽和部分に於ける保護ドームの発生』(1961-62)を引っさげ、パリに殴り込みをかける。 さなぎ?それとも房なりのバナナ?) ひと部屋使った大型インスタレーションの壁や天井からつり下げられている黒々しい男性器の数々が、ある意味壮観である。グロテスクに見えるがエロティシズムは微塵も無い。滝口修造も「単位形態が一種の記号のように配置されているが、記号とはいっても、一見して陽物(男性器)を連想するかもしれない。しかしこれがエロティックな象徴的な意図をもっているとは考えられない」と工藤の作品を評している。さらに「作者は観念的な抽象図形によらないで、意味ありげなオブジェを記号性に昇華しようとしている」と続けた。 ペニスの過剰な集積と配置が、なぜかキャンベルのスープ缶を記号として反復していくアンディ・ウォーホル作品を連想させる。 床にも巨大なペニスが横たわり、精液を表す白い紐の上に広げられた図版類はジャクソン・ポロックやジャスパー・ジョーンズの絵画だったり、マイケル・ハイザーのランドアート、ツイストを踊る人々の写真や、大学紛争時の安田講堂の写真で、他にもインスタントスープの袋などと共に放出されている。工藤は対談等で以下のような発言を度々している。「人間性と愛とセックスは、即席スープやタバコといった日用品と同じ次元にあることを、君たちヨーロッパ人に伝えたい」。工藤はアートも社会的事象も日常生活もすべて等価であると述べている。後に工藤はこのアイデアをさらに発展させて、人間性や人間の崇高さは幻想で、本当は商品並みの価値しかないのではないかと疑問を提示する。人間がもたらした環境破壊や原子力、遺伝子操作といった行き過ぎたテクノロジーに警鐘を鳴らし、グロテスクで挑発的な作品を通じて人類史や人間の進化を見直すべきであると訴え続けた。『インポ分布図と…』はパリで認知される出発点であると共に、後のすべての作品の根底に共通するテーマでもある。 工藤は『インポ分布図と…』について、人間は生まれながらにして、社会的・文化的・政治的・歴史的・遺伝的に不自由で「種の保存の奴隷」であると定義し、それを踏まえて『インポ哲学』と名付けてハプニングを敢行、衝撃のパリデビューを果たす。 英語もフランス語も出来なかった工藤だが、1960年代に世界的な広がりを見せていたハプニングを展覧会に取り込むことで、過激なパフォーマンスを通じて自身の前衛作品が広く知られるようになる。 それにしても後年の作品まで執拗に繰り返される男性器のモチーフ。よっぽど自身のモノが小さくてコンプレックスを抱いていたのだろうか。最終的には千葉県房総の鋸山に巨大な岩壁レリーフ『脱皮の記念碑』(1969) まで制作してしまう。 --ボックスアート-- パリで活動していた60年代、工藤は箱を用いたボックスアートをいくつか制作している。 モチーフはお得意の男性器に加え、眼球や耳、口などの身体の一部分、ボウルや蒸し器といったキッチン用具、瓶詰の人形、注射器、薬の錠剤などが収められている。 同じボックスアートでもジョセフ・コーネルの繊細な作品とは違い、ポエジーのかけらもない。遠目から見ると原色を使ったポップアートだが、どの箱もグロテスクで、鑑賞者も次第に辟易しそうだ。反芸術、ただ美しいものを糾弾し続け、醜い異形の作品を作り続けるのも精神的にシンドくならないのか心配になってしまう。 工藤は箱について後年次のように書いている。 「我々は箱がなければ生きられない。我々は箱(子宮)の中で生まれ、箱(アパルトマン)の中で育ち、死んでから箱(カンオケ)の中に入る。生誕から死までの間に我々は我々自身で小さな箱を作る。—つまり箱の中で箱を作る—。この小さな箱とは我々の祈り(願い)と、のろいを閉じ込める箱である」。 ただでさえグロテスクなモチーフが箱という閉鎖的な空間にぎゅうぎゅう詰めになっているから、鑑賞中にシンドく感じるのだろうが、しかし我々の生活も案外、職場・住居の窮屈な箱、社会規範の見えないバリアにぎゅうぎゅうに押し込められているのかもしれない。 --放射能と人間-- 1964年以降、原爆や放射能を連想させる作品を盛んに発表し始める。 人間の肉体が消滅し、肥大した頭部や大脳、眼球だけが残る。原子力というパンドラの箱を開けたがために、人間の進化はグロテスクな変容を辿るのだ。 工藤は「日本のアーチストによる原爆への単なる抗議のための作品ではなく、ヨーロッパにおいて行き詰まった人間性を示したもの」であると話し「テクノロジーと対決しながら風化して影になってしまった人間ども、にもかかわらずキリスト教的な愛にしがみついている愚かなヨーロッパ人、それがあなた方である」と手厳しい持論を展開している。物事を対立的に捉えるキリスト教的なヨーロッパの二元論に異を唱え続ける、もう少し具体的に言うと、自然を征服して、テクノロジーを飼い馴らそうとする人間のエゴイズムを、毒々しく挑発的な作品を通して鋭く指摘した。 何もヨーロッパに限った話ではない。科学技術の発展で経済的繁栄を享受している上に成り立つわれわれ人類の愛が地球を救うとか、自然環境を回復させることは、確かに偽善的であろう。 --放射能による植物培養-- グロテスクさは相変わらずだが、だんだん作品の色彩に変化が見られてきた。ネオンのような蛍光色が、ま、これもドギツイ色といえるが、怪しく発光するピンクや黄色に彩られた作品がだんだん美しく思えてきた。そろそろ著者の感覚も麻痺してきた。 人間と自然、あるいは人間とテクノロジーは対立軸にあるのではない。汚染された自然と制御不能なテクノロジー、それらを自らのエゴで創り出した人間は、取り返しのつかない状況と共生していくしかないのか。工藤の挑発的で不気味な作品を通して、人類の未来という不透明な先行きについて、我々は大きな課題を突きつけられる。 --鳥籠シリーズ-- 70年代半ばから始まる鳥籠を使った連作は、それまでの攻撃的な作風は影を潜め、一転して内省的で、集大成的な作品になっている。 色とりどりの糸がもつれて絡みつく鳥籠作品がひと部屋に集められ展示されると、なかなかの景色である。もちろん鳥籠の中に目を凝らすと、たまにさなぎのような男性器や、もげた鼻が落ちていたりもするが、そこには挑発的な意図は見当たらない。糸を紡ぐという行為は何か祈りにも似ている。子供の誕生や母親の死、73年のオイルショックから始まる世界不況、自身の身体を蝕むアルコール依存症と様々な出来事に直面した中で制作された鳥籠の連作。糸を紡ぐという行為は何か祈りにも似ている。工藤も作家として多作な方だと思うが、作品を作るという行為もまた、瞑想の境地に至る道だったのかも知れない。鳥籠が一堂に会する部屋だけでも見るに値するだろう。 インテリの典型、権威と成り果てたフランスの劇作家イヨネスコを強烈な作品群でこき下ろした個人攻撃は感心できないが、それ以外の作品は、人間性、テクノロジー、原子力、自然環境など常にジャーナリスト的な視点で問題提起をしていたのが工藤というアーティストの最大の特色だろう。すべてのテーマが半世紀を経ても今日的な問題である。日本にも、過激かつ知的な作品で社会に斬り込める作家がそろそろ出てきても良い頃だ。 #
by azzurrotree
| 2014-02-18 03:44
| Contemporary/現代美術
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Comments(2)
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