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会期終了間際に滑り込みセーフで観に行った「没後50年 藤田嗣治展」(Foujita: A Retrospective Commemorating the 50th Anniversary of His Death) @ 京都国立近代美術館 (2018年10月19日〜12月16日)。
戦前のフランスで活躍し、乳白色の裸婦像で知られる日本人画家、くらいの情報しか知らなかったが、激動の時代を行き、波乱万丈の人生を送った藤田の生き様を作品を通して追体験できる興味深い展覧会だった。 オーソドックスな時系列の展示だが、藤田のスタイルの変遷を分かり易く辿ることができる。 藤田の父親は陸軍軍医だったので、経済的に恵まれた環境で育つ。高校生の時にすでにフランス留学を希望していた藤田であったが、父親の上司だった森鴎外から「フランスに行く前に日本の美術学校は出ておいた方がよい」と薦められ、東京美術学校 (現在の東京藝術大学) に入学。正規の美術教育を受けているので、アカデミックなスタイルから脱却して、後に自身のスタイルを確立するという意味では「ピカソ型」と言える。 東京美術大学の卒業制作は極めてまともな油絵である。卒業後はフランスに打って出るという野望が伺える、挑発的なポージングと表情の自画像。 1913年27歳で単身渡仏。ピカソやモディリアーニ、キスリングらと交友を結び始め、キュビズム風やモディリアーニ風の作品にもチャレンジしている。フランス滞在1年足らずで第一次大戦が勃発。多くの日本人がパリを離れる中、藤田は留まる決意をするも、戦争の影響で日本からの仕送りが滞り、戦争中は絵も売れずに生活に困窮する。 この頃から、いかに日本人的な要素を作品に取り込むかを模索し始める。西洋人受けする「オリエンタル」な作風を戦略的に研究することで、自身の作品の市場価値を高める努力をする。 結果、浮世絵に出てくる女性の肌の美しさを、油彩でありながら繊細な描線と柔らかな乳白色で表現する手法を編み出し、パリで藤田の絵は絶賛される。 前回のブログ「藤田嗣治とジュイの布」でも紹介したが、背景の布の模様やレースの緻密な描写も、藤田の卓越した手技を誇示し、その細部に至る正確な筆使いがパリの人々を魅了したのだろう。 エコール・ド・パリの画家たちも、同時代の日本人画家たちも個性的な作風ではあったが、皆コテコテの油絵を描いている中、藤田は同じ油絵なのに、墨のように繊細で細い描線と、透明感のある乳白色の肌をカンヴァス上に現出させ、その質感の圧倒的な軽さで頭一つ抜けだした。 1920年代に一躍売れっ子の画家になった藤田だったが、1929年に世界大恐慌が起こり、藤田のパリでの生活は経済的に破綻、3人目の妻と別れ、20年近く続いたパリでの暮らしを放棄して、1930年代は新しいフランス人の愛人と中南米に2年間ほど放浪の旅をする。 鮮やかな色彩と油絵らしいコテコテのマチエール(質感)で、中南米の風土と情熱的な人々のエネルギーを表現している。 旅の移動が多く、この時期は水彩画が多いが、色使いは力強い。 1933年に日本に帰国。この時、藤田50歳。そろそろ日本に居やアトリエを構えて落ち着きたいと思っていたのだろうか。 日本滞在中の絵も、日本人のあっさり醤油顔で無表情な感じを水彩画で上手く表現している。 しかしこの後、日中戦争、第二次世界大戦と戦争が拡大。藤田はトレードマークだったおかっぱ頭を丸刈りにして、戦争画の制作に没頭していく。 純粋に日本への愛国心ゆえ戦争画を引き受けたのだろうが、それにしても自由で奔放なパリ生活と、軽さが信条だった乳白色の作風から180度方向転換して、凄惨な戦争画の制作に打ち込む藤田の二面性には驚かされる。実は隠れ国粋主義者だったのだろうか。 終戦後は国威発揚のプロパガンダに率先して協力したとして、国民やマスコミ、画壇、画家仲間から糾弾される。画家としての知名度が災いして一人スケープゴートに祭り上げられてしまった藤田。1949年に5人目の日本人妻の君代と日本を脱出、その後二度と日本の地を踏むことはなかった。 1947年に描いた「私の夢」は眠る裸婦の周りに様々な動物が配され、涅槃図(ニルヴァーナ)のようでもある。日本を離れる意思表示、日本人としての自分は死んだ、という決意表明に映る。 藤田は1955年にフランス国籍を取得し、格好良く日本を捨てたようにも見える。しかし本人は事あるごとに「日本が私を捨てたのだ」と言っていたそうだ。日本に未練たっぷりだったようで、フランスにいても妻の君代に日本食を作ってもらい、都都逸や浪曲、落語を繰り返し聴く日々だったようだ。なんとなく藤田にはフランス料理とパンとチーズを楽しみながらシャンソンでも聴いていて欲しかった。 晩年はキリスト教の宗教画の制作に全身全霊を捧げる一方、「アジア人の描く宗教画は売れない」と自覚していたようで、常にマーケティングの視点があるのはさすがである。 子供の絵も多く描いているが、それは5度の結婚でも子供ができなかったことが大きいのかも。 生前最後の個展に出品された宗教画「マドンナ」(1963)は、聖母マリアが美しい黒人女性で周りの天使たちも皆、有色人種。最後の最後まで藤田はcoolだったな、とちょっと感動した。
by azzurrotree
| 2018-12-10 06:01
| Paintings/西洋絵画
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