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2018年KYOTOGRAPHIE京都国際写真展、続いては藤井大丸ブラックストレージのStephen Shames (ステファン・シェイムス) の展示。
Stephen Shamesは報道写真家として子供の貧困・犯罪・麻薬の現場、アフリカのエイズ孤児、人種問題といった社会問題に鋭く切り込んできたが、Shamesの写真家としてのキャリアはBlack Panther Party (ブラックパンサー党) から始まった。 ![]() ShamesがBerkeley大学の学生だった20歳の頃、1960年代ヒッピー発祥の地でもあるカリフォルニア州Berkeleyでは、公民権運動とヴェトナム反戦運動が盛り上がりを見せ、大学のキャンパス内でも学生運動が勃発。 Berkeley大学でも学生によるデモやストライキにより、警察が介入する事態に。学生たちを片っ端から警棒で叩きのめす警察の容赦ない蛮行と混乱により、大学が断続的に一年近く閉鎖されている時に、Shamesは後のBlack Panther議長となるBobby Seale (ボビー・シール) にヴェトナム反戦集会で出会い、友達になる。 ![]() Black Panther Partyは人種問題、警察の蛮行、住宅供給の不足、経済状況の悪化に伴う貧困層の教育格差問題といった都市部の黒人貧困地域が抱える問題に取り組むために1966年カリフォルニア州オークランドで組織された。 白人が牛耳る司法制度は黒人コミュニティーに何もしてくれない、黒人であるというだけで警察にはいわれのない暴力を振るわれる。キング牧師の唱える非暴力の限界を見た黒人の若者たちが、自分たちの身は自分たちで守ろうと結成したのがPanthersだった。 ![]() Shamesとしては通っている大学もデモやストライキの騒乱で閉校になりがちだったので、友人Bobby Sealeが創設したBlack Phantherに密着を始め、AP通信やNewsweek, New York Times, Washington PostなどにPanthersの写真を売って学費や小遣いを稼いでいた。 ![]() 一方Panthersもまた党の宣伝活動をして党員を増やすために、メディアを上手く利用していた。オークランドの黒人貧民街 (ghetto) では地元警察による理不尽な暴力や虐待が横行し、Panthersを始め様々な団体でボランティアの自警組織が立ち上がった。 Panthersの頭脳を担うHuey Newton (ヒューイ・ニュートン) はカリフォルニア州で銃を所持することは合法だと主張し、党員全員が銃で武装するこれまでにない過激なスタイルを作り上げた。武器を持って立ち上がった黒人たちのイメージを新聞やテレビで見た全米の黒人たちは大歓喜、若い党員が急増した。 ![]() ![]() Shames は1967〜73年に渡りBlack Pantherに密着し、寝食を共にした。二十歳そこそこの白人の若者が、過激派と謳われたBlack Pantherの支配下にあるブラック・コミュニティーにカメラ一つだけ持って丸腰で入って行くのは勇気がいったであろう。 メディアはインパクトがあるセンセーショナルな写真を欲しがったが、ShamesはPanthersの地域に根付いた地道な奉仕活動も追い続けて写真に撮っている。 ![]() Panthersは貧困層の子供たちに無料朝食プログラムを提供していた。 全米各地にキッチンを設置し、登校前の子供たち (その数1万人以上!) に黒人白人分け隔てなく、毎朝朝食を提供した。 他にも学校にも行けない貧しい子供たちに教育の機会を与え、衣服提供プログラムや、黒人に多い遺伝性の貧血病の治療を無料で行った。 ![]() 暴力・過激派のイメージが浸透しているPanthersだが、黒人居住地区で様々な社会奉仕活動に従事し、若い男性だけでなく女性の党員も多かった。1970年代の一時期は党員の3分の2が女性だったとも言われている。 ![]() 過激なイメージばかりが先行し、何気ない穏やかな日常の写真がメディアに取り上げられることはまずなかった。 ![]() ![]() 黒人コミュニティーの内側から写真を撮るという姿勢は、以降のShamesのプロジェクトの根幹をなしている。取材対象に長年密着して、地域に溶け込み、弱者の側に立って寡黙に写真を撮り続ける。世界中で起こっている過酷な社会問題にフォーカスするのがフォトジャーナリズムの基本であり役割だが、Shamesは写真を通して厳しい現実を生きる人々の物語を紡ぐ名手である。 Shamesの写真家としての原点とも言えるBlack Pantherの貴重な記録を見ることができた。 ![]() ![]() ▲
by azzurrotree
| 2018-05-25 01:45
| Photography/写真
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2018年KYOTOGRAPHIE京都国際写真展、続いては京都文化博物館のJean-Paul Goude(ジャン=ポール・グード)の展示。展覧会のタイトル "So Far So Goude" は英語の "So Far So Good"(今のところ順調)に自分の名前をもじっていて遊び心がある。
![]() Jean-Paul Goudeはフランスの写真家、グラフィックアーティストで、世界各国の有力誌やKENZOやシャネルの広告キャンペーンで活躍。 ![]() ![]() しかしGoudeを一躍有名にしたのは、1980年代に公私ともにパートナーだった歌手でスーパーモデル、女優のGrace Jones(グレース・ジョーンズ)とのコラボレーションを置いて他にないだろう。 ![]() Grace Jonesは日本では映画007シリーズのマニッシュでモード系のパワフルなボンドガール役(ほとんど悪役)で有名かと思うが、歌手・ソングライターとしてディスコ、ニューウェーブ系の音楽活動で80年代のミュージックシーンを席巻した。 ![]() Jonesの背中や耳や頬といったあらゆる丸みが角ばっているのは、写真を切り抜いて貼っているから。背景のモザイクのような模様はテープを貼っている。ジャマイカの出自とその身体的特徴を最大限に引き立てた彫刻のような造形。 ![]() ![]() バレエのアラベスクみたいなポーズで超人的な身体能力だなと思ってしまったが、実は様々なポーズを写真に撮った後、身体をパーツごとに切り離し、足を引き伸ばしたり、上半身を正面に向けさせてとあらゆるアナログな加工を施し再接合した結果の人間離れしたポージングなのだ。 ![]() 今ならフォトショップでいくらでも加工できるが、当時はアナログな方法で写真を切り貼りしてペインティングを施していた。 どのアルバムカバーもJonesの黒人女性としての身体的特徴を最大限に引き出し、中性的なセックスアピールを醸し出していて、そのビジュアルは一度見たら忘れられない強烈なインパクトがある。自立した力強い女性をアートワークとして昇華させることで、Jonesを性を超越したポップカルチャーのアイコンに押し上げたのは、イメージメーカーとしてのGoudeの役割が大きい。 一方で黒人女性を物に貶めている、性的欲望の対象にしているという批判もある。Grace Jones自身も被写体としてカメラの前に立つ時に、超人的なミューズとして彼女を崇めるGoudeからの非現実的な期待を背負わされて、心密かに葛藤していたと告白している。 さすがに今回展示されていなかったが、Grace Jonesが一糸まとわぬ姿で四つん這いになって檻の中に入って咆哮している写真は、確かにGoudeの代表作のひとつだが、黒人女性を囚われの黒豹か奴隷に見立てているようで、心穏やかではない気分にさせられる。昨今のMe Too女性運動が盛り上がりを見せている中で、Goudeの作品は今の基準に照らし合わせると、また違った解釈がなされるのかもしれない。 ちょうどアメリカでGrace Jonesの映画「Bloodlight and Bami」が公開されたばかり。唯一無二の孤高のビジュアルアーティストとしてステージに立つ心境を吐露し、「私だって人間よ!」と連呼する場面もあって、表現者としてのGrace Jonesへの興味をかき立てる映画となっている。 ![]() ![]() Goudeの写真の特徴は、自分とは異なる人種への賛美と、ダンスやバレエ、音楽のリズムにつながる身体の動きに美を見いだしているところだろう。彼にとって躍動する人間のフォルムは究極の造形なのだ。 ▲
by azzurrotree
| 2018-05-19 04:30
| Photography/写真
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今年で6回目となるKYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭(2018年4月13日〜5月13日)。今年は国内外の社会問題を取り上げた展示が多く、例年より見応えがある。エンターテイメント性の高い展示も登場して、シリアスな主題とファッショナブルかつユーモア溢れる展示の緩急がつき、より楽しめる回となった。開催6年目にしてようやく受付や運営もスムーズに回るようになった感がある。
まずは嶋臺(しまだい)ギャラリーの展示、Frank Horvat(フランク・ホーヴァット)からスタート。 ![]() フランク・ホーヴァットを知らなくても「靴とエッフェル塔」の写真は見覚えがある人も多いのでは。巨大なハイヒールの脚がパリを蹂躙し、エッフェル塔がまるでミニチュアの置物のよう、黒いスーツの男性が小人に見える、遠近法で遊んでみた写真。 ![]() 一番お気に入りの写真。英語のタイトルを直訳すると「作家のアンテロ・ピレッティとスパゲッティを食べるデボラ・ディクソン」 だが……。 顔周りを囲む白菊の花弁のような飾りは帽子の一部か、はたまたカラー(襟)なのか。顎までフェイスベールで覆われ、オートクチュールで身を固めたモデルがひと口でもパスタを口にする気配すらしない写真。パスタをフォークにからめた男性を見やる視線が雄弁で、なんとも可笑しい。 ![]() 様々な視線が交錯する不思議な構図。思わず被写体ひとりひとりの視線の先を辿ってしまう。ネックレスの組み合わせがエレガントかつモダンで真似してみたいが、首が細くて長いからこそ似合うアレンジである。 ホーヴァットは1950〜60年代にElleやVogue、Harper’s Bazaarなどの女性ファッション誌で活躍したファッション・フォトグラファーとして有名だが、本人は報道写真を志向していたこともあり、ファッション写真なのにどんな小さなハプニングも瞬時に捉え、被写体の心の機微をも見逃さない、ルポタージュ的な写真が多い。 嶋臺(しまだい)ギャラリーは毎年足を運んでいるが、展示によってガラリと趣が変わるので、いつも楽しみにしている。 ![]() 今年は伝統的町屋の雰囲気が味わえる畳の間と中庭は解放していないようで展示がスケールダウンした感があるが、それでも元酒蔵のギャラリー部分の空間が、シックなファッション写真や展示デザインの優美さと馴染んでいて、調和のとれた落ち着いた佇まいを見せていた。 ![]() ![]() ▲
by azzurrotree
| 2018-05-05 23:38
| Photography/写真
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前回に引き続き、芦屋にあるセレクトショップ「月光百貨店」で開催された写真家でコラージュ作家の久保田昭宏の個展『箱の中の月 a moon in the box』第2部を紹介したい。
![]() ![]() ![]() ![]() 今回の展示では、前面にガラスが入った箱の中に立体的な風景を現出させた大型作品も何点か展示されていて、新鮮な驚きだった。 箱の中という限定的な空間で展開される作家の世界観が、無限の奥行きと広がりを持つ小宇宙になるボックス・アートはいつだって魅力的。 またまた筆者の独断と偏見でお気に入りの作品をいくつかピックアップ! ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 第2部は初日にお伺いできたら良かったが、展示最終日&年末クロージング・パーティーに駆け込み参加する形になってしまった。 お陰で久保田氏の他にも、コラージュ作家や漫画家の方々とお話しする機会に恵まれ、「月光百貨店」のオーナー星野くん曰く「サロン」のような雰囲気でアート談義に花が咲き、大いに刺激を受けた。 来年も素敵なアートと出会えますように。 ▲
by azzurrotree
| 2017-12-30 03:13
| Photography/写真
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芦屋にあるセレクトショップ「月光百貨店」で、写真家でコラージュ作家の久保田昭宏の個展『箱の中の月 a moon in the box』を開催中。
![]() 展示は2部構成で、第1部は2017年11月23日〜29日までで、夜を表現した空間に、月や星など天体モチーフの作品を中心に展示。 ![]() 展示作品は新旧織り交ぜたラインアップ。厳選されたベスト作品と、新作を並べることで作家のキャリアを総括する展示になっている。 筆者の独断と偏見でお気に入りの新作3作品をピックアップ! ![]() タイトルがまず素敵。シュルレアリスム絵画のような幻想的な写真に一目惚れ。タネを明かすと、卵型の大きな水晶は久保田氏の鉱石コレクションのひとつで、中に枯れ木か藻のように見えるのは包有物(inclusion)という、自然の造形の不思議を思わずにはいられない奇跡のような石。 水晶の中に浮遊するトランプを入れ、背景に小さく控えめに光る月と飛行船を配している。写真の「見る人を欺く」性質をうまく表していて、手品師は不在でも、作品そのものが奇術のようだ。 ![]() モチーフは多いがごちゃごちゃしていないのは、遠近感が出ているのと、手前のスペースを確保している計算し尽くされたレイアウトの妙がなせる業。古い雑誌の切り抜きをテーブルの平面に置くのではなく、ひとつずつ垂直に立てているので奥行き、立体感が出ている。 「コラージュ」「切り抜き」というと、切り抜いたモチーフをテーブルに置いて平面で写真を撮るイメージがあったが、久保田氏から「僕の作品は常に立体を意識して撮影しています」と答えが返ってきた。 例えば人物のぺらぺらの切り抜きは歪まないように立てかける、金魚の切り抜きは裏側を針金に貼り付けて宙を浮いているように見せるなど、簡単にデジタル加工できるところを、なるべくアナログな方法を用いて丁寧に撮影することで、見たことはないがレトロでどこか懐かしい風景にリアルな立体感を持たせている。 ![]() この作品の色使いは控えめだが、それでも青の色の出し方がいつも上手いなぁ、と感心してしまう。同じ青でも、夜の闇に光る青と、昼間の明るい空の青はやっぱり違うのだ。 久保田氏の写真で真っ先に思い浮かぶのは、深い青を効果的にきかせた作品だが、新作では全面に色を効かせた作品は少ない。作品が少しずつ変化あるいは進化を遂げ、より洗練されてきた印象を持った。 ![]() これは少し以前の作品だが、筆者はこんな神秘的な青がいっぱいに広がる作品も好きである。自分がどんなちっぽけな存在でも、またどんな状態であっても受け入れてくれる懐の深い、包容力のある色なのかな、と思う。 今回は小さなお店の一角が展示スペースなので、写真のサイズが小さいのは仕方ないとして(むしろ小さい写真のひとつひとつが小さな星のようで、本展示には望ましく好ましいサイズ)、将来的にギャラリーのような広いスペースで展示する際には、もう少し大判サイズの作品が見たい。 これまでのキャリアの軌跡を辿るアプローチで大規模展覧会をすることもあるだろうから、制作年も明記したいところ。 お店のこと: 稲垣足穂の短編を想起させる「月光百貨店」というお店の名前だけですでに心ときめくが、店内に一歩入るとそこはオーナーの星野時環さんの審美眼が発揮された小宇宙が広がる(ちなみに「永遠の少年」を思わせる風貌の星野くんは親切という次元を超えて、とってもsweet! )。 平たく言えば雑貨を販売しているのだが、月や星に関連する雑貨や書籍、アイテムすべてが厳選されていて、小さなオブジェ、あるいはアンティーク作品やアート作品のひとつひとつがまるで星座や小惑星のように絶妙なセンスで配置され、お店の世界観を構築している。 ![]() 今回の久保田氏の作品と、お店の雰囲気があまりにもぴったりマッチしていて驚いた。 これまで何度か久保田氏の作品を本ブログで紹介しているが、 久保田昭宏展@ギャラリービブリオ 久保田昭宏展第2弾!@ギャラリービブリオ 実はお会いするのはかなり久しぶり(前回会ったのはいつだったか思い出せないくらい)。普段は東京に在住しているが週末だけ在廊すると聞き、京都の端っこの片田舎から芦屋までショートトリップを敢行した。思ったよりずっとお元気そうだったし、いろいろお話しできて、かなり充実した楽しいひと時を過ごせた。 第2部は2017年12月22日〜28日で、イメージとしては第1部の夜が明けて、明るい青空の雰囲気になるとのこと。 来月展示予定の作品を、久保田氏の許可をいただいて少しだけpreview! ![]() ![]() ![]() あれ、そこまで明るい雰囲気でもないけど……。来月の展示はどうなるのかな? 第2部展示の様子は来月ブログに紹介する予定。乞うご期待。 ▲
by azzurrotree
| 2017-11-29 04:20
| Photography/写真
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Getty Museum (ゲティ美術館) で開催中の展覧会 ”Breaking News: Turning the Lens on Mass Media”(2016年12月20日-2017年4月30日 @ Getty Museum)は、新聞や雑誌、テレビのニュース番組といったメディアからインスピレーションを得て作品を制作したアーティストを取り上げている。
![]() 1960年代のベトナム戦争から、2000年代の対テロ戦争と呼ばれる近年に至るまでの50年間のマスメディア文化を、アーティストたちはどのように捉えてきたのかに焦点を当てている。政治的なメッセージが強い作品が並ぶ中で、特に機知や皮肉、ユーモアに富んだ作品をいくつか紹介したい。 まずはMartha Rosler (1943- ) の "House Beautiful: Bringing the War Home" (1967) のシリーズから。 ![]() 今でこそ残酷な映像は報道各社が自主規制しているが、ベトナム戦争時はテレビで残虐極まりない映像がそのままアメリカの各家庭のお茶の間に届けられ「リビングルーム戦争」と呼ばれた。 ![]() アメリカが介入した戦争にも関わらず、遠く離れたベトナムの地で激戦が繰り広げられる様子を、一家団欒でテレビを囲んで見入る豊かなアメリカ中流階級の当事者意識の無さ、現実味の欠如に疑問を持ったRoslerは、アメリカの写真雑誌Life誌からベトナム戦争の写真と、住宅インテリアの広告を切り抜いてコラージュ作品を制作した。雑誌の隣り合わせたページに戦禍の写真と、贅を凝らした家具やインテリアの広告が並列されることの矛盾を鋭く突いた作品だ。 ![]() テレビ映像からベトナム戦争の真実を知り、衝撃を受けた多くのアメリカ国民、特に学生・若者たちは戦争を正当化する国の偽善や欺瞞に気づき、反戦運動のうねりが高まった。豊かで安定した生活や、物質主義といったアメリカ中流社会の価値観への反発・批判は1960年代後半のカウンターカルチャー(対抗文化)、ヒッピー文化のムーブメントにつながっていく。 Sarah Charlesworth (1947-2013) の作品Modern Historyのシリーズは各新聞の一面を取り上げ、見出しや記事本文などの文字情報をすべて消して、写真だけを残す処理を施している。 世界中に衝撃を与えた1978年のアルド・モーロ元伊首相の誘拐・殺害事件を元に2つのシリーズから構成されている。 ひとつ目のシリーズはバチカン市庁国が発行する新聞Osservatore Romano (オッセルヴァトーレ・ロマーノ紙) の1978年3月17日 (モーロ元首相が誘拐された翌日)〜5月10日 (ローマ市内で車のトランクの中から死体で発見された翌日) の一面を取り上げ、事件の扱いを検証している。 ![]() イタリア全土を揺るがせた事件はしかし、ローマ市内にありながら「イタリアの外国」と称される小さな独立国にとっては、所詮小さな虫の羽音に過ぎないらしい。3月17日の一面にモーロ元首相の顔写真が出たきり、以降の一面を飾るのは人々に祝福を与えるローマ法王の写真一択である。 もうひとつのシリーズは、誘拐犯と目される極左テロ組織が出した「モーロ元首相を殺害して湖の底に沈めた」という手紙(後に偽物による手紙と判明)が公開された翌日1978年4月20日に発行された世界各国の新聞の一面を取り上げている。 ![]() まだ凍っているローマ北部の湖を捜索する様子を捉えた写真がLos Angeles Times, New York Timesといった米主要紙、仏紙Le Figaro紙の一面トップに来ている。 しかし、スペインのLa Nacion紙や、ブラジルの地方紙Folha de S.Paulo紙になると、前日のサッカーの試合の写真がイタリアの事件と同等、あるいはそれより大きい扱いになっているところが面白い。 ![]() 写真の大小や割り付け(レイアウト)で、ニュースの重要度や、各新聞社の判断が一目でわかるというのは新聞業界の常識だが、写真をクロップして一部分を切り出したり、サイズを変えたりすることで生じる情報のヒエラルキーがアートになり得るというのは、ある意味新鮮な驚きである。 Alfredo Jaar (1956- ) はニューヨークを拠点に活動するチリ人アーティストで、メディアがいかに情報や印象を操作し、世論を形成するかを社会批判を込めたアートで訴え続けている。 Untitled (Newsweek) は1994年に起こったルワンダ虐殺のさなかに、17週に渡りNewsweek誌の表紙を写真に撮り、一列に並べて展示。各号の表紙の下には、同じ週にルワンダで起こった出来事、死者数、国連の対応などを併記している。 ![]() およそ100日の間に急速な広がりを見せたジェノサイド、死者は80万人から100万人にもなったといわれている。 17週間ルワンダ虐殺を大々的に報じなかったのはNewsweek誌だけではない。国際的なメディアはルワンダでの殺戮を報道せず無視を決め込む。理由としてはジェノサイドに至るまでの様々な要因が複雑に絡み合った経緯を、メディアは正しく認識できず、早期に報道できなかったせいもあるだろう。 ![]() アメリカ政府や国連は遠い国の部族衝突に介入することに二の足を踏み、米国内のメディアも状況を把握していたのにも関わらず報道が後手に回り、犠牲者はさらに増えた。 Newsweek誌の中にはルワンダ虐殺を報じたい記者もいたはずだが、経営陣からすると、遠い国のジェノサイドよりも近場のニュースを一面トップで扱った方が雑誌の売り上げが伸びるという判断だったのだろう。 ![]() 特にO. J. シンプソン事件は3週に渡り特集記事が組まれ、全米の関心事だったのはいうまでもない。 しかも17週目にしてやっとルワンダ虐殺を表紙に取り上げた際も、表紙右上にO. J. シンプソン事件の続報があることをしっかり宣伝し、読者の関心を引きつけている。 ![]() O. J. シンプソン事件を追いたい読者心理に乗じて雑誌の売り上げを伸ばしたい気持ちは分かるが、だからといってNewsweek誌が目先の利益に目が眩んでゴシップ雑誌に成り下がる必要はないのだ。 国際情勢を扱うニュース誌としての矜持を見せて欲しかったという思いに突き動かされてAlfredo Jaarも本作品を制作したに違いない。 最後はRobert Heinecken (1931-2006)で締めたい。2014年にHammer Museumで大規模なHeinecken回顧展があったばかりで、Getty Museumも本展企画の段階で把握していたはずだと思うが。 また同じ作品が展示されるのはいささかお腹いっぱいな気分だが、面白い作品なので2つ紹介しておきたい。 1980年代に報道志向が高まり、アメリカではニュース番組が人気を博す。メインキャスターは番組の視聴率も左右する花形的な存在となる。特にその一挙手一投足に視聴者の視線が注がれる女性キャスターに注目したHeineckenは、1986 年の作品TV Newswomen (Faith Daniels and Barbara Walters)でふたりの女性キャスターの顔の表情の似ているシーンをつなげて比較している。 ![]() 女性キャスターに求められる容姿を体現しているふたり。知的に見えて華があるセミロングのブロンド、ヘアセットも抜かりなく。白のスーツで清潔感を演出、あるいは原色の赤や青のジャケットで意思の強さを主張、ダークカラーの衣装の時は首回りをパールなどのアクセサリーで華やかに見せる。化粧はしっかり濃い目。喋り方や発音などキャスターとして訓練を受けているとはいえ、こうしてふたりの女性キャスターを並べて比べると服装や髪型まで酷似していることに驚く。 さらにHeineckenは、CBSが朝のニュース番組の視聴率挽回のために理想の女性キャスターを探すという架空のストーリーを作り上げ、一部屋の壁3面を使う大掛かりな写真作品を制作する。 ![]() 一応Docudramaと銘打っているので、登場人物や基本的な事件や出来事は本物なのだが、ストーリーの最初の方はいかにも真面目な話で危うく騙されかけた。男性キャスターと女性キャスターの顔写真を合成して完璧な組み合わせかどうかをCBSの経営陣に判断させる辺りで胡散臭さ満載なのでようやくフィクションの設定だと分かる。男女キャスターの顔写真を重ねて合成した作品につけられた説明がまた可笑しい。 ![]() 例えばロサンゼルス支局から選出されたブルネット(暗い髪色)のラテン系女性キャスターとの組み合わせについて: 「(アフリカンアメリカ系男性天気キャスター)Steve Baskervilleとの組み合わせは魅力的に映ったが、(白人男性キャスター)Bill Kurtisとの組み合わせは「昨夜一睡もできなかったようなヒドい顔」に見え、花柄ブラウスの着用にこだわる女性キャスターはニューヨークの知的さにそぐわず、経営陣はロサンゼルスでしか通用しないと結論づけた」―― 作品キャプションから抄訳 ![]() アジア系女性キャスターと、先に挙げた男性キャスターたちとの組み合わせについては: 「人種の融合に挑むも、古典的なアジア系の特徴が際立ち過ぎて、エキゾチックを狙うもグロテスクに転ぶ。思い込み激しいファンタジーは経営陣に却下される」―― 作品キャプションから抄訳 Heineckenの作品は基本的に単純なアイデアで可笑しみを誘うが、その裏にはジェンダーや人種に対する偏見、テレビや広告が消費者を煽る大量消費社会への批判、マスメディアへの厳しい視点が込められている。 アーティストたちは、写真が意味するところの不確実性、つまりニュースは作為的に選ばれ、操作され、それを取り巻く環境によって異なる解釈が可能になるということを鋭く見抜いて、それぞれ作品に社会批判のメッセージを込めている。 事件、政治、戦争、人種問題といったシリアスな話題すら、鋭い皮肉からゆるいユーモアまで笑いに転換できるセンスに、逆にアーティストたちの強かさと反体制の姿勢、不屈の精神を見て取れる。報道のあり方について考えさせられるのはもちろんのこと、既成の社会体制や価値観に物申すアーティストたちの力強いメッセージを前にして、アートの今日的な役割についても一考させられる見応えある展覧会だ。 展覧会の企画は少なくとも3年前から始まるので、トランプ政権の誕生を予見していたとは思えないが、結果的に時機を得たタイミングでの展覧会となった。トランプ大統領とメディアの対立が鮮明になった今、改めてメディアの社会的役割についての議論が活発になることを期待すると共に、アーティストたちがこの歴史の分岐点とも言える状況に今後どう応えていくのかにも注目したい。 ▲
by azzurrotree
| 2017-04-21 01:37
| Photography/写真
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米国の写真家シンディ・シャーマン40年のキャリアを総括した大規模個展 "Cindy Sherman: Imitation of Life"(2016年6月11日〜10月2日)@ The Broadを紹介したい。
![]() 昨年ダウンタウンにオープンした現代美術館「ザ・ブロード」については次回のブログで詳しく取り上げる予定。 Cindy Sherman (1954- )は自身を被写体として映画、テレビ、広告、名画に出てくる人物に扮装したセルフ・ポートレイト作品で有名な写真家。 ![]() 展示はThe Broadのコレクションをメインに120点で構成。ロサンゼルスでは約20年ぶりの個展となる。 1980年代からCindy Shermanの熱心なコレクターであるイーライ&エディス・ブロード(Eli and Edythe Broad)。 1982年にまだ無名だったCindy Shermanの作品”Untitled Film Stills”のシリーズを1枚あたり$150〜200(約1万5,000円〜2万円)で購入したことを誇らしげに語るEli Broad氏。今ではその価値は1,000倍に跳ね上がっている。Cindy Shermanの世界最大のコレクターとして、現在127点を所有。自身の名を冠した現代美術館でオープン以来初の企画展がCindy Shermanなのも納得である。 −−人生の模倣−− 展覧会タイトル"Cindy Sherman: Imitation of Life"も、ダグラス・サーク監督(Douglas Sirk)の1959年制作のメロドラマ映画から来ている。 (基本的に以下に紹介する写真作品はすべてuntitled(無題)である) 初期作品”Untitled Film Stills”は、1977年〜80年にかけて制作したシリーズで、アメリカやヨーロッパの1950〜60年代のアートシアター系映画から着想を得ている。 ![]() Cindy Shermanの親世代が理想とする典型的な女性性や女性らしさを表現している。モノクロフィルムのクラシックな女優をイメージし、様々な映画の一場面をそれらしく演出しているが、特定のキャラクターを模倣しているわけではなく、社会によって作り上げられた「お決まりの女性像」を総体的に演じている。 とはいえ写真を見ると、ブリジット・バルドーやマリリン・モンローといった映画スターを想起させるキャラクター作りも見られる。 ![]() 固定概念というのは恐ろしいもので、映画やテレビ、広告に求められる女性らしさは、このシリーズが作られてから40年近く経過した今現在もあまり変わっていないように見える。 これはエンターテイメント産業の上層部がいまだに男性によって支配されている現実と大いに関係があるだろう。米国の映画監督の中で女性が占める割合はわずか9%という統計が2015年に発表されたことは衝撃的ですらある。邦画ですら映画の制作費に数億円かかるが、ハリウッド映画なら数十億円規模の制作費がスタンダードの中、女性監督にビッグバジェット映画を任せられないと、男性中心の保守的な価値観が支配的な上層部が判断した結果である。 ![]() Cindy Shermanの”Untitled Film Stills”シリーズは、メディアがいかに男性目線でステレオタイプな女性の美しさを生産し続けているかを鋭い洞察力で描いていて、現在においても(悲しいかな)普遍的なテーマを扱っている点で秀逸である。 ”Bus Riders”シリーズは、15枚セットの作品を1976年当時は実際のバス車内の広告設置部分に展示した。ありふれた光景だが、バスの乗客の特徴をよく捉えていて可笑しい。 ![]() ![]() ![]() 1983年にはファッション誌Vogue Paris やHarper’s Bazaarの委託を受けて、ファッション写真を制作している。 ![]() ![]() 垢抜けない服に不器用過ぎる表情はダサさ満点で、ファッション誌が創出するスタイリッシュなファッションとは相反する。 ファッション誌が創り上げる「理想の女性像」という虚構の世界を皮肉る一連の作品は、ファッション誌からの委託を逆手にとって、ファッション業界の体質を見事に批判し挑発しているのだから痛快である。 1988年〜1990年に制作された名画シリーズはルネサンス、ロココ、バロックなどの時代を基調に、様々な人物画を参照しつつ、総体的な古典絵画のイメージを作品に落とし込んでいる。 ![]() まがまがしい付け胸が悪趣味ではあるが、これも意図的なデフォルメで、宮廷画家の男性目線によって描かれた白い肌や胸の強調、母性や女性らしさを象徴する古典絵画のモチーフも、シンディ・シャーマンの手にかかると全てがグロテスクなパロディになる。 ![]() 「日本のシンディ・シャーマン」と評されることもある森村泰昌と比べてみると、森村はいくら扮装して違う人物になりきっても決して悪趣味に転ばない。美と醜の境界線を心得ている。 森村泰昌は女性を演じるからには美しく演じ切ろうという気概、異性に対する敬意が感じられるが、Cindyは女性の「より美しく、セクシーに見せたい」という虚栄心を炙り出し、同時にそれは男性目線の要求を反映させた女性の媚びでもあることを看破している。同性ゆえに容赦ない。 この社会に規定される美は、人々が女性に押し付けるステレオタイプなのではないか、というそこはかとない反発が、彼女の作品のユーモアとグロテスクの合間から鋭く光る。 しかし、Cindy Shermanの名画シリーズの後の展示はどこまでも醜悪に転がり落ちるから不思議である。義肢や人工乳房、人工性器を用いた作品や毒々しいピエロに扮した作品は写真をブログに載せるのも憚られる。 アーティストとして有名になり、作品がオークションで高値で取引されるようになったシンディ・シャーマンの挑発の対象が、悪趣味なマネーゲームを繰り広げるアートコレクターに向けられたのだろうか。 老いをテーマに忍ばせる作品を作り始めてようやく作品が落ち着いてきた感がある。 ![]() 2010年からは、再び映画の世界に戻り1920年代のサイレント映画を題材にしている。1920年代に流行った細身のドレスやボブカットといったフラッパー・スタイルと呼ばれるファッションを身に纏った往年の女優が年を重ねたらという想定で、自身の老いとも対峙している。エレガントでノスタルジー薫る作品になぜか安堵する。 ![]() 女性の美、虚栄心、地位、既成概念、アートそのものについても観る者に疑問を投げかけるような作品を作り続けてきたCindy Sherman。アーティストとしてのキャリアを通じて、絶えず世の中のステレオタイプに戦いを挑んでいることがよく分かる見ごたえのある展示だった。 ![]() ▲
by azzurrotree
| 2016-10-06 20:21
| Photography/写真
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前回はLACAで開催したロバート・メイプルソープ展を紹介したが、今回はGetty美術館で同時開催された”Robert Mapplethorpe: The Perfect Medium” (2016年3月15日〜7月31日)を紹介したい。
![]() このMapplethorpeの芝居がかった不自然なポーズ、実は名画と呼ばれる古典芸術から来ている。 ![]() カラヴァッジョの絵に潜む得体の知れない狂気を、Mapplethorpeの手に握られたナイフで表現している。 過激な性描写のイメージばかりが先行するRobert Mapplethorpe(1946-1989)だが、静物画のように花を撮り、ギリシャ彫刻のように肉体をとらえた写真は、意外にもヨーロッパ絵画や彫刻の古典的な様式美を巧みに取り入れている。 ![]() このモデルのポーズや構図、大理石やブロンズのような肌理で、何となくどこから着想を得たか予想がつくだろうか。 ![]() 古典に回帰したネオ・クラシック彫刻で知られるイタリアの彫刻家アントニオ・カノーヴァの代表作を、見事に現代風にアレンジしている。 Mapplethorpeならではの性別や人種を超えた美の表現は秀逸。 ![]() この作品も褐色の肌がブロンズ像を想起させるが……。 ![]() 余計な表現を排除した簡素な描き方はネオ・クラシック調だが、シュルレアリスムの作品のようにも見える不思議な絵画。ルーブル美術館に所蔵のジャン・イポリット・フランドランの名画にインスパイアされた画家や写真家は多い。 写真というメディアを介し、芸術的な造形美を追求したMapplethorpe。彼の作品の根底に流れる古典の要素や芸術性に焦点を当てたGettyの展示は、Mapplethorpeの今後の歴史的評価にもつながるだろう。 ![]() Gettyの展示全体のテーマは、Mapplethorpeが1970年代後半に制作したX, Y, Z Portfolioの3つの主題にゆるやかに沿っている印象がある。 X Portofolio (1978) はゲイセックスやSM、Y Portofolio (1978) は花、Z Portfolio (1981) はアフリカ系アメリカ人のヌードがテーマである。 LACMAもGettyも入場するにあたり、特に年齢制限を設けていないが、男性の性器を露骨に写した作品が数多く展示されていた。日本ではまず展示すら許されないだろう。 The exhibition contains sexually explicit content that may not be suitable for all viewers(展示には性的に露骨な内容が含まれるため、すべての鑑賞者に相応しくないかもしれません)という注意書きが。このぼんやりした書き方が、芸術か猥褻かのあいまいな線引きを表現しているようで面白い。 ただGettyの会場内にある小部屋の入り口にはしっかり警備員が立っていて、18歳以下は入れないようにしていた。この小部屋の真ん中は壁で仕切られていて、入り口正面からは美しい花の写真が展示されている様子しか見えない。 ![]() しかし仕切りの裏に回ると、悪名高きX Portfolioからフィストファックを含む過激な作品が数点並んでいた。これらの写真に無理やり意義を見出すとしたら、目を背けたくなるようなアンダーグラウンド・セックス・カルチャーも世の中には存在するという認識を持てることと、どのような性、人種、身分に属していても、これを見た人はほぼ100%何かしら不快感を抱くだろうな、という感情の共有だろうか。 観光客の老夫婦がこの小部屋からショックを受けて出てきた時に、立っていた警備員がすかさずHow did you like the flowers?(花の写真はどうでしたか)と声を掛けたというエピソードがブラック過ぎて笑える。 ![]() これを展示するGettyも勇気があると思ったが、X Portfolioを美術館で展示する意味を考えてみた時に、展覧会に連れて行ってくれたJohn Solt氏がひとつヒントになる話をしてくれた。ベトナム戦争中に、米ポルノ雑誌『ハスラー』(Hustler) は見開き1ページに大写しの女性器を載せ、次のページにベトナム戦争で血まみれになって倒れている兵士の写真を載せて「どちらが猥褻か?」と強烈なメッセージをアメリカ社会に叩きつけた。戦争と猥褻はどちらがより暴力的か。同じ暴力なら戦争で死ぬより、セックスを楽しむ方がよっぽど無害だという主張は極論だが心底正しい。平和が長く続く日本ではこの論理は出てこない。 もうひとつ興味深いことはGettyの展覧会は40万人の入場者数を記録したが、展示についてクレームは一切出なかったそうだ。80年代〜90年代、 Mapplethorpeの作品は物議を醸し裁判沙汰にまで発展したが、時代は移り変わり、鑑賞者がより成熟し、様々な芸術表現に対して寛容になったといえるだろう。 過激で挑発的な作品を展示する美術館の真の狙いは、展示を観た人々の対話を引き出すことに尽きるだろう。芸術と猥褻の線引き、美術館で展示する意味、表現の自由について、美術館は自由な議論を提供する場であってもいい。 ![]() ▲
by azzurrotree
| 2016-08-30 17:26
| Photography/写真
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今年ロサンゼルスはRobert Mapplethorpe(ロバート・メイプルソープ)祭りである。LACMA(ロサンゼルス郡立美術館)とGetty Museum(ゲティ美術館)が共同でMapplethorpeの作品や関連資料を大量に購入した2011年当時から話題になっていたが、2016年にようやくLACMAとGettyのふたつの美術館でMapplethorpe大規模展覧会の同時開催が実現した。
![]() Robert Mapplethorpe (1946-1989) はニューヨーク生まれの写真家。生前も死後もMapplethorpeの作品はその露骨な性描写から、公の場での展示に不適切だと物議を醸してきた。 ![]() 1989年にMapplethorpe巡回展 ”The Perfect Moment” の巡回先だったワシントンD.C.のCorcoran Gallery of Art (コーコラン・ギャラリー) がNEA (全米芸術基金:米政府連邦予算を受けて運営) の援助を受けていたことで、超保守派で反同性愛者を公言するJesse Helms上院議員が「市民の税金で猥褻なアートをサポートするのか」と批判を展開、Corcoran Galleryでの展示は中止に追い込まれる。しかし皮肉なことに宣伝効果は抜群で、次の巡回先で集客数大幅UPの大盛況となる。 翌90年のThe Contemporary Arts Center(オハイオ州シンシナティ)の巡回では、美術館館長のDennis Barrieが逮捕、起訴される。しかしここでも裁判沙汰が注目を集め入場者数を伸ばした。この裁判の様子を後にテレビ映画化した”Dirty Pictures” (2000)はゴールデン・グローブ賞でTV映画賞を受賞している。 ![]() 80年代はレーガン政権下でアメリカの保守化が進み、上記の経緯も相まって、Mapplethorpeの作品検証・研究はなかなか進まなかった。 芸術か猥褻かはいつの時代も問題になるが、その線引きは時代と共に常に変化する。社会におけるセクシュアリティはもちろん、芸術におけるセクシュアリティも捉え直す時期に来ている。そういう意味でロサンゼルスのふたつの主要美術館がMapplethorpeの作品を大量購入した英断を評価したい。今後さらなる調査・研究が期待される。 まずはLACMAで開催したRobert Mapplethorpe: The Perfect Medium (2016年3月20日〜7月31日)を紹介したい。 彼の写真のテーマは、花などの静物写真、セレブなどのポートレイト、ヌード、セックス、ボンデージやSMプレイといったアンダーグラウンド・シーンだ。 ![]() 写真を撮る態度について、ひとつ徹底していたのは、彼が選ぶ被写体は彼の審美眼に叶ったものだけ。男性器の写真を撮る時も、花の写真を撮る時と同様の態度で、そこに洗練された完璧な美を求めた。 ![]() ![]() 写真を撮れば撮るほど、自分の中にある美の基準、性的嗜好、セクシャリティに揺るぎない自信を確立していったのだろう。 世界女性ボディビル大会初代チャンピオンのLisa Lyonとのコラボレーションは6年間に及び、写真200枚、本、ビデオを手がけた。 ![]() 女性でありながら鍛え上げられた体躯を前にして、従来のジェンダーのイメージが揺らぐところにMapplethorpeは魅力を感じたのだろうか。 ![]() セレブリティの写真も多く撮っているが、どちらかというとそれは彼が嗜好する美しい被写体ではなく、自分がセレブにのし上がって有名になるための手段でしかなかったように思う。 ![]() 同じセレブでも歌手で詩人のパティ・スミス(Patti Smith)を撮った写真は格別だ。とても私的で親密、気高さすら漂わせる写真で、筆者もとても好きな写真だ。 ![]() 恋人としてニューヨークで共に暮らしていたのは5年ほどだが、その様子はPatti Smith の回顧録"Just Kids" (2010)に詳しい。 ![]() アーティスト活動だけでは食べていけないMapplethorpeが生活のために男娼として街に立つうち、自身のホモセクシャリティーを自覚し、ゲイの恋人の元に走ってしまう。しかし別れた後もふたりはMapplethorpeがエイズにより42歳で死去するまで生涯に渡り友情を育んだ。 Patti Smithの美しい写真で締めたいと思ったが、やはりMapplethorpeのナルシストぶりと自己顕示欲を体現する写真で最後を飾りたい。 ![]() ![]() 次回に続く。 ▲
by azzurrotree
| 2016-08-24 23:25
| Photography/写真
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LACMA(ロサンゼルス郡立美術館)で開催中の展示、 Japanese Prints and Photographs: Paths through Modernity(「日本の版画と写真:近代化への道」2016年5月21日〜9月25日)。
日本の版画と写真の100年に渡る変遷を、1917年から今日に至るまでの木版画、リトグラフ、写真といったLACMA所蔵品・個人蔵から辿る網羅的な展示。とはいえ作品数は少ないので100年を駆け足で振り返る感じ。 ![]() 展示は版画と写真という新旧ふたつのメディアの交差点、表現を巡る共通点に光を当てている。版画はインクを紙に、写真はフィルムに光を投影することでイメージを紙に写し取るのが技術的な共通点。 そして20世紀初頭は版画、写真両方のメディアの過渡期でもあった。版画は時代遅れとされた20世紀初頭に、2つの新しい版画運動が起こる。浮世絵技術の再興と近代的な表現を目指した新版画と、絵師・彫師・摺師の分業だった従来の協業をすべて一人で行い、実験的に新しい表現を追求した創作版画だ。 一方写真は、日本では20世紀初頭に絵画的表現を志向するピクトリアリズムが一世を風靡する。そしてピクトリアリズムに反発する形でストレートフォトグラフィ(カメラの機能、特性を重視し、写真にしかできない新しい表現を追求する)が、1930年代には新興写真という大きな変革の波がドイツから入ってくる。フォトグラムやフォトモンタージュといった技巧表現、バウハウス、ロシア構成主義、抽象絵画といった芸術運動を取り入れた新しい写真表現を、日本の写真界も貪欲に吸収していった。後にシュルレアリスムの影響を受けた前衛写真の流れにもつながっていく。 2つの新しい版画運動も、新しい表現方法やヨーロッパの芸術運動を取り入れた新興写真の影響を多分に受けている。 創作版画と写真の両方に果敢に取り組んだ恩地孝四郎は、本展示でも際立つ存在感。 ![]() 展示では抽象絵画の創始者カンディンスキーのリトグラフと比べていた。 ![]() 恩地にとっては写真も版画も彼の美意識・芸術を表現するメディアのひとつ。創作過程において自由に使い分けて、時にモチーフをシンクロさせている。 ![]() ![]() 1930年代の版画・写真作品に共通のモチーフを探して展示するのは面白い着眼点だとは思ったが、メディアは違えど同じ時代の過渡期に同じ新しい表現を模索するなら当然の結果とも言える。 近代化する都市の目覚ましい発展、ヨーロッパ発のファッション、デザイン、建築、音楽、芸術といったモダン文化が開花し、混沌と活気に満ちた激動の時代は、もちろん版画や写真のモチーフとして反映されている。 一方で日本の伝統文化や原風景たる自然への憧憬も捨て切れない。 ![]() 戦前・戦後の日本人が経験した近代化と伝統・自然回帰の間で揺れるジレンマが、日本の版画と写真の100年に渡る変遷から伝わってきた。そういう気付きを与えてくれた意味で、小さな展示ながらキュレーターのHollis GoodallとUCLAの大学院生(美術史専攻)インターンDan Abbeの作品選択眼はなかなか鋭かった。 ![]() 最後にオマケ。 浮世絵の人物描写とだいぶ異なる例で藤田嗣治の版画が展示されていた。 ![]() 乳白色と言われる代表的な色使いが肌だけでなく洋服にも使われていて素直に可愛いと思える。 しかし外国ではエキセントリックで大胆な構図の浮世絵の人物画の方が遥かにウケが良さそうだった。 ▲
by azzurrotree
| 2016-08-17 00:43
| Photography/写真
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