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会期終了間際に滑り込みセーフで観に行った「没後50年 藤田嗣治展」(Foujita: A Retrospective Commemorating the 50th Anniversary of His Death) @ 京都国立近代美術館 (2018年10月19日〜12月16日)。
![]() 戦前のフランスで活躍し、乳白色の裸婦像で知られる日本人画家、くらいの情報しか知らなかったが、激動の時代を行き、波乱万丈の人生を送った藤田の生き様を作品を通して追体験できる興味深い展覧会だった。 オーソドックスな時系列の展示だが、藤田のスタイルの変遷を分かり易く辿ることができる。 藤田の父親は陸軍軍医だったので、経済的に恵まれた環境で育つ。高校生の時にすでにフランス留学を希望していた藤田であったが、父親の上司だった森鴎外から「フランスに行く前に日本の美術学校は出ておいた方がよい」と薦められ、東京美術学校 (現在の東京藝術大学) に入学。正規の美術教育を受けているので、アカデミックなスタイルから脱却して、後に自身のスタイルを確立するという意味では「ピカソ型」と言える。 ![]() 東京美術大学の卒業制作は極めてまともな油絵である。卒業後はフランスに打って出るという野望が伺える、挑発的なポージングと表情の自画像。 1913年27歳で単身渡仏。ピカソやモディリアーニ、キスリングらと交友を結び始め、キュビズム風やモディリアーニ風の作品にもチャレンジしている。フランス滞在1年足らずで第一次大戦が勃発。多くの日本人がパリを離れる中、藤田は留まる決意をするも、戦争の影響で日本からの仕送りが滞り、戦争中は絵も売れずに生活に困窮する。 この頃から、いかに日本人的な要素を作品に取り込むかを模索し始める。西洋人受けする「オリエンタル」な作風を戦略的に研究することで、自身の作品の市場価値を高める努力をする。 結果、浮世絵に出てくる女性の肌の美しさを、油彩でありながら繊細な描線と柔らかな乳白色で表現する手法を編み出し、パリで藤田の絵は絶賛される。 ![]() 前回のブログ「藤田嗣治とジュイの布」でも紹介したが、背景の布の模様やレースの緻密な描写も、藤田の卓越した手技を誇示し、その細部に至る正確な筆使いがパリの人々を魅了したのだろう。 ![]() ![]() ![]() エコール・ド・パリの画家たちも、同時代の日本人画家たちも個性的な作風ではあったが、皆コテコテの油絵を描いている中、藤田は同じ油絵なのに、墨のように繊細で細い描線と、透明感のある乳白色の肌をカンヴァス上に現出させ、その質感の圧倒的な軽さで頭一つ抜けだした。 ![]() 1920年代に一躍売れっ子の画家になった藤田だったが、1929年に世界大恐慌が起こり、藤田のパリでの生活は経済的に破綻、3人目の妻と別れ、20年近く続いたパリでの暮らしを放棄して、1930年代は新しいフランス人の愛人と中南米に2年間ほど放浪の旅をする。 ![]() 鮮やかな色彩と油絵らしいコテコテのマチエール(質感)で、中南米の風土と情熱的な人々のエネルギーを表現している。 旅の移動が多く、この時期は水彩画が多いが、色使いは力強い。 ![]() 1933年に日本に帰国。この時、藤田50歳。そろそろ日本に居やアトリエを構えて落ち着きたいと思っていたのだろうか。 ![]() 日本滞在中の絵も、日本人のあっさり醤油顔で無表情な感じを水彩画で上手く表現している。 ![]() しかしこの後、日中戦争、第二次世界大戦と戦争が拡大。藤田はトレードマークだったおかっぱ頭を丸刈りにして、戦争画の制作に没頭していく。 純粋に日本への愛国心ゆえ戦争画を引き受けたのだろうが、それにしても自由で奔放なパリ生活と、軽さが信条だった乳白色の作風から180度方向転換して、凄惨な戦争画の制作に打ち込む藤田の二面性には驚かされる。実は隠れ国粋主義者だったのだろうか。 終戦後は国威発揚のプロパガンダに率先して協力したとして、国民やマスコミ、画壇、画家仲間から糾弾される。画家としての知名度が災いして一人スケープゴートに祭り上げられてしまった藤田。1949年に5人目の日本人妻の君代と日本を脱出、その後二度と日本の地を踏むことはなかった。 ![]() 1947年に描いた「私の夢」は眠る裸婦の周りに様々な動物が配され、涅槃図(ニルヴァーナ)のようでもある。日本を離れる意思表示、日本人としての自分は死んだ、という決意表明に映る。 藤田は1955年にフランス国籍を取得し、格好良く日本を捨てたようにも見える。しかし本人は事あるごとに「日本が私を捨てたのだ」と言っていたそうだ。日本に未練たっぷりだったようで、フランスにいても妻の君代に日本食を作ってもらい、都都逸や浪曲、落語を繰り返し聴く日々だったようだ。なんとなく藤田にはフランス料理とパンとチーズを楽しみながらシャンソンでも聴いていて欲しかった。 晩年はキリスト教の宗教画の制作に全身全霊を捧げる一方、「アジア人の描く宗教画は売れない」と自覚していたようで、常にマーケティングの視点があるのはさすがである。 ![]() 子供の絵も多く描いているが、それは5度の結婚でも子供ができなかったことが大きいのかも。 ![]() 生前最後の個展に出品された宗教画「マドンナ」(1963)は、聖母マリアが美しい黒人女性で周りの天使たちも皆、有色人種。最後の最後まで藤田はcoolだったな、とちょっと感動した。 ![]() ▲
by azzurrotree
| 2018-12-10 06:01
| Paintings/西洋絵画
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会期終わりに駆け込みで行ってきた「没後50年 藤田嗣治展」(Foujita: A Retrospective Commemorating the 50th Anniversary of His Death) @ 京都国立近代美術館 (2018年10月19日〜12月16日)。
![]() フランスに渡り一気に才能が開花した藤田。「乳白色の肌」と絶賛された独自の画風を確立、1920年代のパリ画壇に一大旋風を巻き起こす。フランスで熱狂的に受け入れられた藤田はパリでの絶頂期を存分に謳歌する。Foujitaのフランス語の綴りからFouFou(フランス語で「お調子者」の意)と呼ばれ、毎晩パーティーに繰り出していた。 ド派手でエキセントリックなパーティーボーイとして知られる藤田だが、そんな社交界の花形のイメージと相反するようなモチーフを、1920年代に描いた裸婦像の背景に好んで用いている。 ![]() トワル・ド・ジュイ(ジュイの布)はフランス更紗とも呼ばれる伝統的なアンティークプリント生地。人物を配した田園風景のモティーフや、様々な花が散りばめられたコットンプリントで有名。 ![]() 1760年にヴェルサイユ近くのジュイ=アン=ジョザスの地にトワル・ド・ジュイの工場が設立され、最盛期には王妃マリー・アントワネットに愛され、ジュイ布を用いたドレスが製作された。1783年にルイ16世によってトワル・ド・ジュイの工場は「王立」の称号を与えられた。木版、銅板プリントによるテキスタイルのデザインは3万点を超えると言われている。しかしフランス革命後は急速に衰退の道を辿り、工場は1843年に閉鎖されるも、そのデザインは19世紀末のアール・ヌーボー運動に影響を与え、ウィリアム・モリスなどに受け継がれている。 ![]() 藤田が1923年のサロン・ドートンヌに出品した「五人の裸婦」は背景のベッドの天蓋と裸婦の足元に置かれたジュイ風の布の描写が細やか。 ![]() ![]() 藤田が1924年のサロン・ドートンヌに出品した「友情」。裸婦の腰に敷かれたジュイ布の図柄がやたら精緻に描き込まれていて、背景に描かれたバラの花よりも、よっぽど丁寧に絵柄を描いているのは突っ込むべきポイントだろうか。 ![]() ![]() 見た目チャラ男の藤田が、18世紀フランスの伝統的なテキスタイルに注目するのは不思議な感じがするが、伝統に裏打ちされた確かなプリント技術と職人技に敬意を評していたのであろうか。藤田独自の画風である乳白色の柔らかさ、油彩であるにも関わらず水彩のような軽さが、藤田の高度なデッサン力で細やかに書き込んだジュイ布との思いがけないコントラストを生み出している。 ![]() ![]() ![]() トワル・ド・ジュイは1970年代や2000年代にもブームが戻って来ているし、ここ数年は新旧問わず様々なメゾン、デザイナーが小物やドレスなどのハイ・ファッションに取り入れている。今年一番目を引いたのはマックスマーラ (Max Mara)のラインで展開していた最新コレクション。英国王室主催の乗馬イベント「ロイヤル・アスコット」をテーマに、アメリカで活躍する刺繍アーティストRichard Sajaとのコラボレーションが優雅で素敵だった。 藤田は晩年までトワル・ド・ジュイを絵の背景に用いていた。18世紀の人物や風景、神話、天使、花などの植物柄といった古典的なモチーフが、フランスロココ調絵画を想起させるジュイ布。藤田は古き良きフランスを純粋に愛していたのだろう。いつの時代も人々を魅了する伝統ある布であることは間違いない。 ▲
by azzurrotree
| 2018-12-09 02:35
| Paintings/西洋絵画
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有閑マダムよろしく美しいものに囲まれてボンヤリしようと、伊勢丹上階の美術館へ。期待していなかったが、展示数約150点という充実した内容に予想外の驚きであった「ミュシャ展:運命の女たち」@美術館「えき」KYOTO (2017年10月14日〜11月26日)。
![]() アルフォンス・ミュシャ(1860-1939)の名前は知らなくても、どこかで絵やポスター作品くらいは目にしたことがあるのではないだろうか。それくらいミュシャの優雅なアール・ヌーヴォー作品は日本で知られている。 ![]() パリの華やかな時代「ベル・エポック」を象徴する舞台女優として人気を博したサラ・ベルナールの公演ポスター「ジスモンダ」(1894)を手掛けて一躍有名画家になったミュシャ。 実際のサラ・ベルナールは絶世の美女というわけではないが、ミュシャの手にかかると威厳とカリスマ性を備えた雰囲気美人になる。 ![]() ベルナールはジスモンダのポスターを気に入り、1896年のニューヨーク公演でも採用している。このポスターをデザインしたことで、ミュシャはベルナールと5年契約を結び、ポスターを始め、衣装やジュエリー、ヘアスタイルから舞台装置まで手掛ける。今で言うところの総合プロデュースである。 ![]() アール・ヌーヴォの旗手として世紀末にパリで活躍した名声はアメリカにも伝わり、ミュシャは1904年〜1910年までアメリカに招聘される。 美術教師と並行して雑誌や広告デザイン、壁画制作の仕事をしながら、故国チェコを想い壁画サイズの連作『スラブ叙事詩』の構想を実現すべく、アメリカで資金集めとパトロン探しに奔走する。 1910年にチェコに帰郷、20点からなる『スラブ叙事詩』の制作に着手、完成に17年を費やした。スラブ民族というアイデンティティに自身のルーツを見出した大作である。チェコへの愛国心から、チェコスロバキア共和国設立時は紙幣や切手、国章のデザインを無償で引き受けた。 ![]() 展示の中で特に面白いと感じたのは、モデルに長時間ポーズをとらせるのはお金がかかるので、自らモデルを写真に撮ってデッサンに活用していたというエピソード。カメラは普及してきたとはいえ、まだ白黒写真だったことから、画家にとっては仕事を奪われる脅威となるほどの性能に至っていなかった。むしろカメラという文明の利器を積極的に取り入れて効率化を図る画家の姿勢に感心。 ![]() ![]() 娘のヤロスラヴァに衣装を着せて、棒を持たせてポーズをとった白黒写真は、ミュシャの想像力の翼でハープを奏でる少女の幻想的なイメージに大変身。ヤロスラヴァのブルネットの髪は、白い花輪で飾られたブロンドヘアに。ミュシャのファンタジーの世界観の構築力には驚かされる。 ![]() ![]() 会場を一周して美しい作品の数々を堪能できたが、最後の方は少々飽きがきた。人気絶頂の頃から最晩年の作品まで作風にこれといった大きな変化がないのだ。ただ美しいだけで、毒もなければメッセージ性もない作品といえる。美しい女性、パステルカラー、咲き乱れる草花、曲線を多様した装飾的デザインといったモチーフの反復と変奏で華麗なファンタジーを描き切ったミュシャの作品は、しかし日本で高い人気を誇っている。 そういえばアメリカでミュシャを好きなアーティストに挙げる人に会ったことがない。アメリカでは典型的で大衆的な商業デザイナーの位置づけなのかもしれない。ミュシャの人気に日米で温度差があるように思う。 ![]() ミュシャの曲線的なデザインやタイポグラフィを見ていると、アメリカで60年代に興隆したサイケデリックアートをどうしても思い出してしまう。退廃的と称されたアール・ヌーヴォー様式はいったん廃れるが、60年代のアメリカで個性的なタイポグラフィ、豊かな装飾性ともてはやされ復活を遂げたのだった。そういう意味でミュシャのスタイルはアメリカの文化に深く浸透し過ぎて没個性になったきらいがある。 展覧会では年譜で触れていた程度だったが、最晩年の1939年春にドイツがチェコスロバキアを占領した時に「国民の愛国心を刺激する」反動主義とみなされ、しかもユダヤ系だったミュシャはゲシュタポに捕えられ激しい尋問を受ける。その後釈放されるも獄中で患った肺炎が悪化して数ヶ月後に79歳でプラハで死去。ナチスの拷問まがいの尋問がミュシャの死期を早めたのは間違いない。 1930年代はファシズムの嵐がヨーロッパを席巻していたはず。 危機を察知してチェコを離れることも可能だったのに国外に逃れなかったのは、愛国心ゆえか、それとも老齢ゆえ逃げ遅れたか。画家として商業的にも成功を収めたのに、最晩年に悲愴な最期を迎えてしまったのが残念でならない。 ![]() ▲
by azzurrotree
| 2017-11-19 20:00
| Paintings/西洋絵画
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日本全国で寒波に見舞われ、寒さに負けっぱなしの今日この頃。
見るだけで一層寒さを助長するような、あるいは季節が違えば一服の清涼剤になるような、そんな絵画を紹介したい。 ![]() Hammer Museum (ハマー美術館)で開催していた展覧会"The Idea of North: The Paintings of Lawren Harris"は、カナダを代表する風景画家Lawren Harris(ローレン・ハリス、1885-1970)のアメリカにおける初の大規模回顧展。主に1920〜30年代にかけて制作した油彩画の代表作30点余りを展示している。 Lawren Harrisはカナダの雄大な大自然を描いた画家として、カナダ国内では切手のデザインや教科書に採用され、カナダを代表する画家として国民に親しまれているが、隣国アメリカでは、ほぼ無名の画家である。 ![]() ちなみに展覧会のパネル説明に「タイトル"The Idea of North"は同じカナダ出身のピアニスト、Glenn Gould(グレン・グールド)から拝借した」と舌足らずな一文が。 補足説明を加えると、Glenn Gould(1932-1982)は偉大なピアニストなのは言うまでもないが、当時急速に発達したメディア(録音・ラジオ・テレビ)を利用することに非常に長けていた。北への憧れ、厳しい自然と共にカナダ北部の辺境の地に暮らす人々への畏敬の念をこめて、1967年にラジオドキュメンタリー "The Idea of North"(北の理念)を製作する(インタビュー音源を複数重ね、波や風の音も交錯させた「実験的で複雑なオーケストラ楽曲」のような作品)。 Glenn Gouldもカナダや日本では絶大な人気を誇るが、ロサンゼルスにいて「好きな音楽は?」というお決まりの質問に「Glenn Gouldの演奏するバッハ」と答えると、知っている人が皆無なのには毎度驚かされる。 単にクラシック音楽に疎いだけなのか、地続きとはいえ政治の表舞台にあまり登場せず影が薄い隣国の音楽や絵画には関心がないのか、自国以外の国への相対的な無関心さ故なのか、アメリカは何とも不思議な国である。 だいぶ脱線してしまったが、話を戻すとLawren Harrisは、カナダの風景画家たちで結成した「グループ・オブ・セブン」(1920-33)の創始者のひとり。旧態依然としたヨーロッパの写実的な絵画様式から脱却し、カナダの大自然と真摯に向き合うことで、カナダ独自の芸術を確立できるという信念のもと、精力的に風景画の制作に取り組んだ。 ![]() 代表作のひとつMt. Lefroyはカナディアン・ロッキー(ロッキー山脈のカナダ側)を有するバンフ国立公園(Banff National Park)を描いている。 雪面が強風で削り取られてできた、シュカブラと呼ばれる雪紋が極限まで単純化されているのだが、この削ぎ落とされた造形が、波・流水・霞など日本の伝統的な文様のデザインを想起させる。 着物の図柄や琳派の花鳥絵に見られる、花や草木、鳥、波などの自然を単純化させる手法にも通じていて、日本人としては大いに親しみが持てる。 ![]() 手前のこんもり丸い山々、おしくらまんじゅうでもしているような三角の山々、その後ろにもくもくと湧き上がる白い雲は、大自然のデフォルメかパロディー、あるいはほぼマンガである。自然の厳しさの角が全部取れたような山のフォルムに親しみがわく。 一緒に鑑賞していたカメラマンは「ニューヨークの摩天楼みたい」と評していた。後で思い返すと、この評はなかなか鋭い。というのも20世紀初頭からアメリカン・モダニズムがニューヨークを中心にアート界を席巻し、ちょうど1920-30年代の画家は誰もが皆新しい手法を追い求め、抽象表現が興隆を極めていた時代でもあった。 「モダン・アート、アメリカン:珠玉のフィリップス・コレクション」展(2011年、国立新美術館)を観に行った時も、摩天楼が実に様々な表現方法で描かれていた。 Edward Bruce "Power" (ca. 1933) Charles Sheeler "Skyscrapers" (1922) Stefan Hirsch "New York, Lower Manhattan" (1921) オスカー・ブルームナー(Oscar Bluemner)、マースディン・ハートリー (Marsden Hartley)、ジョージア・オキーフ(Georgia O'keeffe)、エドワード・ホッパー(Edward Hopper)など、アメリカのモダニズムを牽引した画家たちを引き合いに出されるのも仕方ないところがある。 フランスで印象派が台頭した時は誰もが似たような筆致で絵を描き、それ以前は写実一辺倒だった。モダニズムで抽象表現というのも、20世紀初頭のアメリカ大陸における、ひとつのスタイルだったのだろう。 しかしLawren Harrisはカナダの大自然の描写を深く突き詰め、新しい風景画のあり方を模索した。そのオリジナリティー溢れる作風は、先に挙げたアメリカを代表する画家たちに決して引けを取らない。 ![]() 光と影、色彩のコントラストを強調し、造形を単純化させることで幾何学的な抽象画に落とし込んでいる。古代遺跡のようにも、ビルのような建築物にも見える。筆者にはピアノの鍵盤のように見えた。見る人によって印象が変わる氷山。 ![]() それにしたって、なんか猛烈に寒いんですけど、この部屋。たまらず近くに立っている監視員のお姉さん(たぶんUCLAの学生)に訊いてみる。 著者:「いつもより部屋が寒いような気がするんですけど。絵の雰囲気に合わせてわざと空調を効かせているのですか?」 監視員のお姉さん:「うーん、どうかしら。ぶっちゃけ、ここはいつでも凍えそうなくらい寒いから〜」と爽やかな笑顔で答えてくれた。 ![]() 視覚による体感温度が低過ぎて、半袖では長いこといられそうもない展覧会。猛暑日に行くと確実に涼しくなれそう。 ちなみに本展覧会を企画したのは米俳優のスティーブ・マーティン(Steve Martin)。日本ではコメディアンとして一番知られているだろうか。脚本や小説も書く。そして知る人ぞ知るミュージシャンの肩書き。バンジョーの演奏歴は50年以上と長い。そしてあまり知られていない現代アート・コレクターとしての一面も。所蔵するのはEd Ruscha, Edward Hopper, David Hockney, Lichtenstein, Picassoなど。 多芸多才なSteve Martinがキュレーターとして展覧会を紹介している様子は、上でも紹介しているHammer Museumの展覧会サイトで見ることができる。 「オークションカタログで初めてLawren Harrisの絵を見た時は、無名の画家を発見したぞ!と興奮したけど、考えてみればアホな話で、絵には値段もついてるし、もうみんな知ってるよね」と、ひとりボケツッコミする場面はコメディアンらしいが、その他は至って真面目に絵について語っている。Steve Martinの普段見られない知的なトークが印象的。 ![]() 木の幹がうろになって残り、風でも吹きさらしていそうな荒涼とした風景に、日の光が差し込む様子が何か救いのようで、自然崇拝や精霊信仰といったアニミズムの精神が感じられる。カナダの荘厳な大自然を力強く描いた風景画からは、Lawren Harrisが他でもないカナダの美しい自然をこよなく愛する画家だったことが伝わってくる。 ![]() ▲
by azzurrotree
| 2016-01-31 03:44
| Paintings/西洋絵画
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しばらく前からLAに上陸していたが、異常気象で1週間以上も季節外れの熱波が続き、情けないことに筆者、熱中症でダウン。
正直、京都よりよっぽど暑かった! ここ2、3日は暑さも落ち着き過ごし易くなったので、ギャラリーの展示オープニングをふたつハシゴしてきた。 ![]() まずは、歌川広重最晩年の浮世絵大作「名所江戸百景」に想を得た絵画展 "100 Not So Famous Views of L.A."(そんなに名所でもないLA百景)のオープニングに行ってきた。 ![]() 場所はダウンタウンのArts District (アート地区) に隣接するAngel City Breweryだ。Breweryだなんて変わったギャラリー名だと思ったが、行ってみたら本当にビール醸造所&パブだった。 ![]() ![]() 作者Barbara A. ThomasonはLAで活躍する画家で、現在はアート制作と平行して、地元の大学で版画や彫刻、絵画を教えている。 Thomason氏のHPはこちら。 キャリア初期は版画工房Gemini G.E.L.に勤務しRobert Rauschenberg, Jasper Johns, Ed Ruschaらのリトグラフを制作した。 ![]() 「そんなに名所でもないLA百景」という着眼点が、「観光名所として知られるロサンゼルス」という固定概念の裏をついている。LA特有のユーモアとゆるさ満載である。何の変哲もない、あるいは地元民ですら辺鄙に感じる場所を、手間暇かけて大真面目に描く、そのアホらしさが可笑しい。 ![]() 地元の人も「え、これどこ?」と思う景色も多い。 ![]() 浮世絵独特の「ぼかし」の技法を用い、木版画に使われたインクの質感に近づけるためCel Vinylという塗料を使っているが、どちらかというとアクリルに近い質感。 ![]() ビール醸造所なので店のおごりでビール券も配布、特大プレッツェルも出血大サービス。 ![]() 今回の展示は絵画作品だけだが、Thomason氏は木版画でもLA百景を制作している。こちらもなかなか渋くて良い。写真でも「名所でもないLA百景」を撮ったら面白そうだ。 「そんなに名所でもない京都百景」を個人的に撮ってみたくなった。 ![]() ▲
by azzurrotree
| 2014-09-22 05:15
| Paintings/西洋絵画
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前回のエントリでは、バルテュスの絵画を巡り日本と海外では少女についての受け止め方が違うことを説明したので、今回は東京都美術館で開催していたバルテュス展のreviewをお届けしたい。7月5日から京都市美術館で巡回展がスタートするので、まだ観ていない方は是非足を運んでみていただきたい。
![]() バルテュス (Balthus, 1908-2001) は20世紀最後の具象画家と呼ばれ、1920年代にヨーロッパを席巻したシュルレアリスムを始め、いかなる芸術の流派や運動にも属さず、生涯に渡り少女たちを描き続けた。 ロリータ趣味だの子供を性の対象にしていると誤解・非難され、常に物議を醸してきた孤高の画家だ。 ![]() 本展は世界中から集められた油彩画40点以上に加え、素描や愛用品等を含め100点以上が紹介されている。 実際に絵を観ると、意外にオーソドックスな油絵の技法を用いている。 ミレー、コロー、クールベに代表されるバルビゾン派、さらに遡って15世紀のフレスコ画や宗教画など西洋絵画の伝統的手法を継承しつつ、それでいて全く独自の世界観を築いているのが不思議に思えた。 初期の静物画や風景画は油絵特有の艶というか、照明の下で絵の表面がギラギラして見える。バルテュスもこの油の艶が好きではなかったようだ。初期以降の作品は艶がないマットな質感を求めて、カゼインやテンペラを絵の具に混ぜてザラザラした壁画のような絵肌を追求している。 ![]() 「読書するカティア」を実際に観ると、図録で見るよりずっと古色蒼然とした色味で驚く。質感はまるで何百年もの時を経たフレスコ画のようだ。 新しい絵を古く見せる、なんだか日本の茶道具に似ている。作った茶釜にわざと傷をつけたり、最初から錆びたように見せたり、茶碗にも欠けやひびをを入れたり。侘び寂びを演出する、経年による趣きを大事にするところが日本の美意識に通じるのではないだろうか。 ![]() 色の好みは初期の頃から一貫しているように思う。深緑、オリーブ、抑えた茶、ベージュなど、くすんだような、沈んだ感じの渋い色味に、時々差し色に赤が入る。 バルテュスの絵画といえば、ぎこちない不自然なポーズの被写体が特徴的だが、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』のための挿絵が、その後のバルテュス作品の原型となっている。 ![]() 不自然なポーズで立っている登場人物や、主人公がもたれ掛かった椅子が倒れそうで倒れない、その危ういバランスが愛憎劇の狂気を孕んだ物語の緊張感を表現している。 ![]() この不自然なポージングは、後のバルテュス作品にもかなりの頻度で反復応用されている。静謐な絵画は、不自然に硬直した身体と、計算され尽くされた構図で緊張感に満ちている。 ![]() ![]() 上にも述べたが、バルテュスの絵画は日本や東洋の影響も受けている。 奥様が日本人というのもあるだろうが、幼少の頃から抱いていた日本への関心が再燃したようだ。「トランプ遊びをする人々」は『嵐が丘』のポージングを反復しつつ、日本で鑑賞した歌舞伎の見得に想を得ている。 ![]() 後年の作品は、伝統的な西洋絵画のこってりとした厚みのある質感と、日本の浮世絵に見られる表情に乏しく平面的な表現がますます接近する、独特の世界観を確立している。 バルテュスは少女について「これから何かになろうとしているが、まだなりきってはいない。この上なく完璧な美の象徴」と語っている。成熟した女性になる前の少女の状態を描く彼の絵の中に、エロティシズムを見出そうとするのは男性側の欲望に満ちた視線ではないだろうか。 また「婦人の肉体は全体的にあまりにも定義され過ぎていますが、少女の肉体はもっと美しい」とも話している。子供である少女から大人の女性に変化する過渡期を、刻々と変わる自然の光を捉えるのと同様の作業でキャンバスに素早く写し取っていたのだろう。 ![]() そしてバルテュスの美意識は「私が理想とするのは、宗教的なモチーフを使わずに宗教画を描くことだ」という、このひと言に集約されている。 少女のヌードは芸術表現としてのアートか、あるいは児童ポルノかという問題が常につきまとうバルテュスの作品。性愛の欲求は作品にあるのか、それとも作品を見る我々鑑賞者の側にあるのか。我々が試されているような作品の数々を、展覧会でぜひ確認してみて欲しい。 久しぶりの上京だったが、あいにくバルテュス展以外にめぼしい展覧会が無かったことがチョット残念。 ![]() ▲
by azzurrotree
| 2014-07-04 01:39
| Paintings/西洋絵画
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ピカソをして「20世紀最後の巨匠」と言わしめた、画家バルテュスの大回顧展は、タイトルも直球で「バルテュス展」。
東京都美術館での展覧会最終日に滑り込みセーフで鑑賞できたので、次回7月5日から開催される京都市美術館の巡回展Previewとして紹介したい。 ![]() バルテュス (本名Balthasar Klossowski de Rola; 1908-2001) といえば少女をモデルにした絵が有名。少女の挑発的な姿態や裸体を描いた作品は1934年にパリで初個展を開き画壇デビューした当時からスキャンダラスだと物議を醸したが、それは今も変わらない。 特に欧米では子供の下着姿やヌードは児童ポルノに直結し、アートといえども厳しい批判にさらされる。この類いの展覧会を欧米で開くなら、ポルノとの違いを明確に説明し尽くさなければ、周囲は納得しないだろう。 ![]() 日本のバルテュス展広告は、パンツ丸出しの少女をモチーフにした「夢見るテレーズ」。さぞや抗議が殺到したことだろう、と思いきや東京の展覧会は最終日ということもあって大盛況。大勢の人々が詰めかけ、時にエロティックと評されるバルテュスの絵一枚一枚に真剣に見入っていた。 数日後に、とある美術館のキュレーターと会食をした際にバルテュス展の話題を向けると「ああ、欧米は大人の裸には寛容ですけど、子供の裸には厳しいですから」と言われた。逆に日本では、大人の性愛文化を描いた純国産の春画や、美しい成人女性モデルのヌード写真で知られるヘルムート・ニュートン (Helmut Newton) が美術館で展示されることはまずないだろう、第一スポンサーがつかない、とのこと。 そういえば全米TV放送が決まった日本の国民的アニメ「ドラえもん」も、しずかちゃんの入浴シーンをカットするかどうかで揉めているくらいだから、検閲の厳しさが伺える。幼児が性愛の対象になりかねない表現は断固許さないというアメリカの毅然とした態度は、当然バルテュスの作品にも向けられる。 ニューヨークにあるメトロポリタン美術館 (The Metropolitan Museum of Art)では、アメリカでは実に30年ぶりのBalthus個展となる "Balthus: Cats and Girls—Paintings and Provocations" が2013年に開催されたが「猫と少女:絵画と挑発」というタイトルからして可笑しい。 つまり「無害な猫と無垢な少女が主題ですが、いくつかの絵は挑発的かもしれません」と最初に断っておくことで、想定されるあらゆる非難を回避したい美術館側の周到な用心深さを見て取れる。会場入り口には「展示されている絵画の中には一部の方を不快にさせる場合もございます」と注意書きを立てる念の入れよう。 しかしメトロポリタンがバルテュスに神経を尖らせるのも無理はない。 例えばフランス・ボルドーの5大シャトーのひとつであるシャトー・ムートンは1945年からワインラベルのデザインを毎年異なるアーティストに依頼している。ピカソ、シャガール、ウォーホルら一流の画家たちが名を連ねるムートンに、1993年に絵を提供したのがバルテュスであった。
しかし少女の裸体のデッサンが児童ポルノだと、カルフォルニアの性的暴行対応チーム (Sexual Assault Response Team) なる団体から抗議され、仕方なくアメリカ向けの輸出ラベルだけは無地で出荷し、この年だけ2種類のラベルが混在することに。皮肉なことに今ではどちらのラベルも貴重なコレクターズアイテムとして市場で高値で取引されている。 また最近では、ドイツのフォルクヴァンク美術館 (Museum Folkwang) で、バルテュスが晩年デッサンの代わりにポラロイドカメラでモデルの少女を撮った写真展が2014年4月に開催予定だったが、作品が小児性愛だと地元の新聞に報じられ、市民からの抗議もあり、ドイツでの展覧会は中止に追い込まれた。 ![]() このバルテュスのポラロイド写真展の仕掛人は現代アート・シーンを牽引するガゴシアン・ギャラリー (Gagosian Gallery) 。メトロポリタン美術館のバルテュス個展に合わせて、美術館から数ブロック離れたガゴシアン・ギャラリーで2013年9月から2014年1月にかけてポラロイド写真155枚が展示された。同展は現在「バルテュス最後の写真:密室の対話」 (The Last Studies; Balthus in Tokyo)として、東京の三菱一号館美術館で展示中だ (2014年9月7日まで)。 前置きが長くなったが、バルテュスを取り巻く状況や日本と海外の温度差がお分かりいただけたと思う。しかし個人的にバルテュス展は「死ぬ前に観ておきたい3大美術展」のひとつだったので、感慨もひとしおである。 バルテュス展が必見である理由として、作品のほとんどが個人蔵であるために展覧会の実現はこれまで難しいとされてきた。いくつかの代表作が展示されなかったのは残念だったが、それでもこれだけの作品数が一堂に会するのは、かなり貴重な機会であることは間違いない。 スキャンダラスな1934年の初期作品「ギターレッスン」(バルテュスは後に功名心と金を得るために描いたと認めている) や、ウラジーミル・ナボコフの衝撃作『ロリータ』の表紙に「猫と少女」(1937) が不本意に使われたことで、ロリコンの烙印を押されたバルテュスであったが、自分の絵画が少女のエロティシズムと解釈されることに憤慨していた。 ![]() 確かに誤解されている面も多い画家である。日本の展覧会図録の中で児童ポルノとの線引きがどこにあるのか説明し尽くされているとも思えない。しかしバルテュスの美意識や少女を描き続ける理由は、展覧会で実際に作品に触れることで、またバルテュスが生前に語った自身の絵画や芸術に対する思想を知ることで、自ずと見えてくるのではないだろうか。 ということで前置きが長くなり過ぎてスミマセン。 本題の展覧会previewは次回に続く……。 ▲
by azzurrotree
| 2014-07-03 19:29
| Paintings/西洋絵画
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LACMA美術館(The Los Angeles County Museum of Art)で開催していた
女性シュルレアリスム・アーティストの展覧会 "In Wonderland: The Surrealist Adventures of Women Artists in Mexico and the United States" だったが、展示数の多さと新しい発見が多過ぎて、一回観ただけでは消化しきれず……。最終日に駆け込みで再度 鑑賞。 ![]() 1930年代〜1970年代にアメリカおよびメキシコで制作された絵画、写真、インスタレーションを中心に、48女性作家による約200点を展示。 シュルレアリストとして世間に認知されているのは、例えばダリ、マックス・エルンスト、イヴ・タンギー、マグリット、マン・レイと男性ばかり。女性アーティストの名が筆頭に 並ぶことはまずない。 シュルレアリスムの作風のひとつである女性を描いた、または女性を暗示した表現は、男性の性的欲望・性衝動を具現化したもので、常に男性作家の視点によるものだった。 教会・結婚・家庭といった伝統的な価値観への強い反発として、1920年代にフランスで興ったシュルレアリスム運動だったが、実際グループは男性ばかりで、女性作家による作品を認めない傾向があった(後にアンドレ・ブルトンは考えを改め、女性シュルレアリストたちの才能を認め、彼女たちの作品を積極的に支援した)。ヨーロッパを席巻したシュルレアリスムだったが、女性は描かれる対象でしかなかった。 面白いのは、代表的な女性シュルレアリストたちは妻、恋人、または創作のインスピレーションを与えるミューズとして、男性シュルレアリストたちの創作活動に関わっていた ことだ。例を挙げると、 ・レオノーラ・キャリントン → マックス・エルンストの恋人 ・リー・ミラー → マン・レイの弟子かつ愛人 ・ドロテア・タニング → マックス・エルンストの妻 ・ケイ・セージ → イヴ・タンギーのパートナー ・レメディオス・バロ → シュルレアリスム詩人ベンジャマン・ペレのパートナー パリで名声を博した男性シュルレアリストの妻・恋人に甘んじることに息苦しさを覚えた のか、女性シュルレアリストたちは第二次世界大戦の戦火を逃れ、創作活動の場を求めて アメリカやメキシコに亡命。 展覧会のタイトルにある "In Wonderland" はルイス・キャロルの小説『不思議の国の アリス』から取っている。アメリカのアリス像は随分フェミニズム的な解釈で語られる。 少女が既存の価値観・常識と闘い、女性の社会的自立を獲得するという読み解き方は、最近ではジョニー・デップ主演映画『アリス・イン・ワンダーランド』でもお馴染みだ(原作をフェミニストの視点で深読みし過ぎ?)。 今展示では、社会的な制約を逃れて、アリスのように精神的にも地理的にも新たな世界を切り開いて行った女性シュルレアリストたちの先駆的な活躍を讃え、祝福している。 正直言って、知っているアーティストは数える程だったが、どの女性シュルレアリストも創造性、技術力ともにトップレベルで傑作揃い。有名・無名含め女性シュルレアリストを一堂に紹介する、歴史的に意義ある展示となった。あとはもう以下に挙げる作品を見て欲しい。 ドロテア・タニング "Birthday" (1942) ![]() フランチェスカ・ウッドマン "Untitled, New York" (1979-80) ![]() フランチェスカ・ウッドマン "Untitled, Rome, Italy" (1977-78) ![]() ローザ・ローランダ "Autorretrato (Self-Portrait)" (1952) ![]() カティ・オルナ "Mujeres con Mascaras (Woman with Masks)" (1962) ![]() 女性シュルレアリストは自画像を描いた作品が多い。創作を通して自身のアイデンティティーを模索したのだろう。少女、動物、夢や神話といったモチーフに自己を投影した作風も目立つ。 レオノーラ・キャリントンやフリーダ・カーロを撮るべきなのは分かっていたが、 この日の私は、完全にレメディオス・バロのストーカー。 "Creacion de las aves (Creation of the Birds)" (1958) ![]() "Armonia (Harmony)" (1956) ![]() "Papilla estelar (Celestial Pablum)" (1958) ![]() "Mimetismo (Mimesis)" (1960) ![]() 最後の"Mimesis" (擬態)は特に傑作。日がな一日裁縫をする女性が、椅子と同化する発想が奇抜だ。 どの作品も独創性を極めていて、ユーモアもあり、技法もいろいろ試行錯誤している。 以前から実物の絵を一度観てみたいと思っていたので、バロの作品が10点ほどもじっくり鑑賞できて、なにか夢が叶ったような気分。 そして日本を代表するアーティストとして選抜されたのは、な、なんと草間彌生。 “The Anatomic Explosion Happening at the Statue of Alice in Wonderland, Central Park, New York” (1969) ![]() シュルレアリストかどうかは微妙だが、60年代にニューヨークで活躍した日本人アーティストとして取り上げられたのは大きい。 ▲
by azzurrotree
| 2012-05-08 21:51
| Paintings/西洋絵画
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小山登美夫ギャラリー京都「インカ・エッセンハイ展 The Natural and the Man-Made」のオープニングの様子をレポート。
オープニングは盛況で、老若男女、国籍も様々で集まったゲストのバランスも取れている。そしてインカ・エッセンハイは、スタイリッシュで容姿端麗、SATCに出てきそうなニューヨークの洗練された女性作家といった風貌。 ![]() (胸元が大きく開いたモノトーンのワンピースに、赤いショールで情熱的なアーティストの雰囲気を上手に演出。ブーツは冬のお約束) クールな第一印象は、しかし話し始めると、良い意味で裏切られた。時にユーモアを交えながら情熱的に自作を解説。どんな質問にも笑顔で応じてくれて親しみやすい。 90年代半ばはエナメルを用いたベッタリとしたフラットな画法と、躍動感のあるモチーフが好対照を成すポップ・アートを制作していたが、2001年から油彩に転向。 今回の展示は油彩5点、モノプリント(版画)も合わせると約10点。 動きのある画面は以前と変わらないが、より幻想的でシュルレアリスム的な作風で、表現のスタイルはずいぶん変わった。一見するとレメディオス・バロやレオノーラ・キャリントンといった、女性シュルレアリスム画家が頭の片隅に浮かぶ。しかしインカ・エッセンハイの絵に込められたメッセージはより具体的で力強い。 森全体が生きているような背景の中、切り倒された木の切り株に居座る木の精霊を描く "Stubborn Tree Spirit" ![]() 木を切り倒そうとする人間の頭上を浮遊する精霊を描いた"The Woodsman" ![]() 精霊自体はファンタジーだが、自然破壊に対する警告とも見て取れるメッセージはリアリティがある。精霊を抱くマンハッタンの高層ビル群に、両側から囲い込むような水の流れが押し寄せる"Manhattan" は、都会と自然の共存を示唆している。 彼女の話を聞いていて面白いと思ったのは「自然も好きだけど、マンハッタンの都会も 大好き」という柔軟さだ。「自然破壊、断固反対!」みたいな攻撃的で痛烈なメッセージでは決してないし、主張の押し付けがましさも無い。自然の驚異に対する畏敬の念を抱きつつも、都会に生活する者として、もっと現実的なレベルで自然崇拝を受け入れているように感じた。 90年代のポップ・アートの作風に固定ファンも少なくなかったろうに、自分の直感や感性を最優先させ、画風も画法も躊躇無く変え続ける。アートで生計を立てる作家としては勇気がいる決断に違いないが、彼女の中では「金儲けのための作品」を描き続けることより、自分の感情に従うのが自然なのだろう。 ここまで読むと直感的なアーティストみたいに聞こえるが、 実は彼女は物事を突き詰めて考え抜くアーティストだと思う。 「NYでは暗くて痛みを感じるような作品が受け入れられているようなところがある。夫もアーティストでイラク戦争時には現地に行って絵を描いて、私自身もニュースなどから出来る限り戦争の情報を集めた。最終的に行き着いたのは、暗くて痛みを伴う世界に貢献するアーティストにはなりたくない、もっと平和に貢献するようなアーティストになりたいと強く願うようになり、そこから作風が変わっていったと思う」と力強く話してくれた。 アーティストとして五感をフル回転させつつも、常に頭の中で考え続け、思考が停止することがない。 エナメルも突き詰めたから、油彩に転向したのだろうし、自然と都会の両方に身を置いたからこそ、絵を通じて柔軟なメッセージを我々に提示できる。9ヶ月になる子供がいて、彼女の作風にある程度影響を及ぼしてはいるが、子供の誕生も彼女にとっては自然現象のひとつで、子供の存在がすべてではない。 なるほど、女性としてアーティストとして充実している時期を迎えているようだ。 作品からも技術の成熟が見て取れる。アーティスト同様、作品も日本人には馴染みがあって親しみやすい題材だと思うので、京都にお寄りの際はぜひギャラリーに寄ってみてはいかがだろうか。 ▲
by azzurrotree
| 2012-03-02 23:47
| Paintings/西洋絵画
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